霊の渇きの癒し(ヨハネ4:6-11)

photo by zoomion
photo by zoomion

魂の渇き

  乾ききった土地、あるいは踏みつけられ堅くなった土地に、いきなり大量の水を与えても受け止めることが出来ません。水を吸い込ませるために、乾燥して堅くなった土をほぐし(耕し、)少しずつ、時間をかけて水をやる必要があります。いったん水を吸収すると、その後はスポンジに水が染みこむように、土は水を吸 い込んでいきます。

  乾ききった土、踏みつけられて堅くなった土は、私たちの魂そのものです。私たちの心(霊)は、様々な困難や思い煩い、あるいは対人関係のストレスなど、多 くの障害によってズタズタに踏みつけられ、堅くなっているのです。ところが、心(霊)は飢え乾いているのに、ガチガチに堅くなっている心では、そこに水が 注がれても受け止めきれず、水は染みこむどころかはじかれて流れてしまいます。では、どのようにして私たちはこの「霊の渇き」を癒すことができるのでしょ うか。  

 

サマリヤにて

  サマリヤは、ユダヤとガリラヤとの間にありました。旧約時代には、北イスラエル王国の中心地として栄えましたが、紀元前722年にアッシリヤに占領され滅 亡しました。その後アッシリヤの占領政策として外国人の入植が行われ、彼らとの雑婚が進み、混血民族になってしまったのがサマリヤ人です。民族の純血を重 んじる正統なユダヤ人たちは彼らを受け入れず、神殿への立ち入りも禁止しました。彼らはユダヤを追放されたため、祭司(ネヘミヤ1328)を擁立してゲジリム山に神殿を建て、サマリヤ教団を打ち建てました。彼らの対立は、民族の血統問題に加え、宗教的な面でもこじれてしまったのです。彼らの間には、全く交流がなかったと聖書が言っています(ヨハネ49)。今日の世界でも宗教や人種間の紛争が絶えないことは皆さんも知っていると思いますが、その二つを混ぜたようなサマリヤとユダヤとの間にあった敵意は相当根深いものがありました。

 イエスさまは、当時としては異例のサマリヤを抜ける道を選ばれました。イエスさまがスカルの町に着き、井戸の傍らで休まれたのは6時頃であったと聖書は言っています(6)。それは今の時間でいうと昼の12時頃と言うことになります。弟子たちは早速何か食べ物を捜しに町に行ってしまいました(8)。イエスさまが疲れて休まれていたところに、一人のサマリヤの女が水くみにやってきました。もちろんイエスさまも喉が渇いたのでしょう。その女に「わたしに水を飲ませて下さい」(7と頼まれました。

 当時は男性が見知らぬ女性に声をかけることはあまりありませんでした。まして、ユダヤ人がサマリヤ人に話しかけるなど思いもよらないことでした。その女性は驚きながら、「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に飲み水をお求めになるのですか」(9と答えました。彼女の明らかな敵対心というか拒絶心が、この言葉の中に見え隠れします。

 

女性の渇き

  彼女が持っていた「渇き」は、どんなものだったのでしょうか。当時、水汲みは女性の仕事で夕方に行われていましたから、昼の時間に、しかも一人で汲みに やってきた彼女には、明らかに人目を避けて水汲みに来なければならない事情があったのです。イエスさまは、このサマリヤの女性は過去に5人の男と結婚し、今同棲している男は合法的に結婚したものではないと言われました(18)。 何らかの事情があったにしても、信頼できる相手を捜しながら不幸な結婚生活を繰り返し、今も非合法な相手と生活している彼女には、当然サマリヤの宗教家も 町の人々も、厳しい目を向けていたことでしょう。ですから彼女は、人目を忍んで人が集まらない時間に水を汲みに来なければならなかったのです。

 

 また、彼女は、人生に対する「恨み」や「疑問」という苦い思いも心に抱えていたことでしょう。しかし、なによりも、彼女を悩ませていたのは、「なぜ私が」と いう疑問だったかもしれません。彼女の結婚生活にどのような問題があったか、聖書は細かく記していませんが、心の拠り所を求めて、あるいはそのような葛藤 からの解放を願って、あるいは愛されることを求めて、結婚を繰り返していたのではないでしょうか。

 このような渇きは、なにも特別なことではありません。それは、どの人にもある渇きです。普段は気にとめないかもしれません。しかし、大きな健康問題、あるい は家族や仕事の人間関係など、何かの困難に遭遇して人生が順調だとは言えなくなったとき、私たちの渇いた心が痛み出すのです。あの時ああしていれば、ある いは状況がもし違っていたら、という後悔や、「なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか」という不満を持ち、出口のない苦しみに心(魂)が渇いてし まうのです。

 

生ける水をあげましょう

 彼女にとって、人目を避けて水を汲みに来るこの時間ほど、自分自身の惨めさを思い知る時は無かった事でしょう。そんな彼女の魂が渇いていることを見抜かれたイエスさまは、「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう」 (10と言われました。

 現代の私たちにとって、この「生ける水」をイメージすることはなかなか難しいかもしれませんが、当時の人々には容易に理解できたとおもいます。かつてイスラエルがエジプトから逃げてきたとき、荒野の中で食べ物や水を下さったのは神さまでした。砂漠の民にとって、水はまさにいのちそのものであり、神さまからの 恵み、賜物なのです。彼女はイエスさまに反論します。「先 生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの先祖ヤコブより も偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」(1112

 彼女はイエスさまの言われた意味が分からず、「あなたは先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか」と聞きました。しかしイエスさまの言われた水は、彼女の考えるような水ではありませんでした。イエスさまは答えました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(1314

 「この水」とは、目の前の井戸からくみ上げられる水であり、それはこの世の与えるものを指しています。水が喉の渇きをいったんは癒すことが出来るように、この世の与えるものも、私たちに満足と平和を与えてくれる事でしょう。しかしそれらは永遠に続くことはありません。水を飲んでもやがてまた咽は渇くし、欲しい ものを手に入れても、また別の欲しいものがあらわれるのは、皆さんもご存じの通りです。

 

 ではイエスさまの与える水とは何でしょうか?それは体の渇きを満たすものではなく、魂の飢え渇きを満たすものです。しかも、それはただ単に自分の渇きだけを 満たすのではなく、自らが泉となって、他の人の渇きをも満たし、永遠のいのちを生み出すものとなっていくのです。そのように、人を生かす水を欲しくはない かとイエスさまは彼女に問い掛けました。

 

渇きを癒すため

  この女性は、イエスさまの言葉の意味を、完全に理解することはできませんでした。でも自らの渇きを癒したい、惨めな生活からの解放(赦し)を願ったのです。彼女はイエスさまとのやりとりを通して、自らの罪深い生活のすべてをイエスさまが見抜いておられるだけでなく、彼女の悲しみや苦悩もすべて知っておら れると分かったのです。

 

 イエスさまが与えられようとした水は、イエスさまご自身のことです。それは彼女に命を与えるために、十字架でご自身のいのちをお捨てになるという、大きな犠 牲を伴う愛でした。この女性が永遠のいのちを、そして彼女が求めてやまなかった真実の愛を受け取るためには、彼女が自らの罪と弱さを認め、自分自身では解 決できないことを認めること、そしてイエスさまとの出会いが必要だったのです。

 私たちは本当の自分をどこかに隠したままにして、救いを受けることは出来ません。彼女は、自分の魂が乾ききっていて、水を必要としていることに気がつかずに いました。しかし、イエスさまとの出会いにより、自分の本当の必要に気づいたのです。それは自らの罪を知り、悔い改めて、魂の渇きを癒し、救い(永遠のいのち)を与えるいのちの水を手に入れることです。この女性が主を信じ、その水を手に入れたことは39節を見ても明らかです聖書は『その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた』と言っています。14節でイエスさまが言われたとおり、その水を受け取った彼女自身が泉となり、その周りいた人々の渇きも癒す(救いに導く)ことが出来たのです。私たち自身がこのいのちの水に潤され、感謝と喜びのうちを歩むことができるようにお祈りしたいと思います。

 

聖書のメッセージについてもっと知りたくありませんか?ぜひ教会にご連絡下さい(お問いあわせはここ

photo by zoomion
photo by zoomion